大森貴洋は20年間何度と無く同じ夢を見続けてきた。ベッドに入ると、観衆の歓声が聞こえてくる。目を閉じると、バスボートが一艇ずつコロシアムへと牽引されて行き…。 それぞれのボートには、有名なアメリカのプロアングラーが乗っている。ボートが一艇ずつコロシアムへ入っていくと、観衆は期待と共に盛り上がっていく。大森自身も列に並んでいるプロアングラーの一人で、バスフィッシング界で最大らしきショーの舞台へ上がるのを待っている。 期待と不安が入り混じる。いいリミットは釣ったが、トーナメントスタッフは彼を列の最後尾へ並ばせる。
突然彼は、なぜ後ろへ行かされるのかに気づく。BASSスタッフは、これまで何年もやってきたように、バスマスタークラッシックの最終ウェイインをドラマチックに演出しようとしているのだ。
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そこからその夢は感情の波に飲み込まれてぼやけてしまうが、最後はいつも大歓声とカメラのフラッシュを浴びながら、彼がバスマスタークラッシックのトロフィーを高々と持ち上げているシーンで終わる。 これは、大森がまだ日本にいた1985年、彼の潜在意識の中に芽生えた夢だ。彼はアメリカや日本の釣り雑誌を読みながら、リック・クランやラリー・ニクソン、デニー・ブラワーがバスフィッシングで生計を立てていっているということに憧れを抱いていた。 この夢は、彼を住む所もお金もないアメリカへと引き寄せた。アメリカ中のキャンプ場でトラックの荷台に眠る、幾度もの寂しい夜に、彼の唯一の友だったのもこの夢だった。そして2004年8月1日、大森貴洋がノースキャロライナ州レイク・ワイリーでバスマスタークラッシックに優勝し、プロフェッショナルバスフィッシングにおける最高の名誉を手にする最初の日本人プロとなった瞬間、この夢は現実となった。ただそれは、大森が夢で何度も見た通りには起こらなかったが…。
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「優勝するなんて、思っても見なかった。」彼は優勝してすぐにそう言った。「クラッシックが始まるとき、優勝する予感はなかったよ。」 「僕はディーン(・ロハス)が優勝すると思ってたんだ。彼はビッグリミットを持ってるだろうって。彼がウェイインして初めて勝ったと分かったけど、それでも信じられなかった。」
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そのときは信じられなかった彼も、睡眠が希少なものとなってしまった1週間後には信じるようになった。写真家、レポーター、スポンサー、そして友人達からのインタビューを受けて、毎晩真夜中過ぎまで起きていた彼は、少しずつ自分がクラッシック優勝者であるという事実を自分の中で消化していった。
「こんなに疲れたのは初めてだ。」と、彼はクラッシック優勝の一週間後、別のトーナメントのプラクティス中に洩らした。「今日、あまりにも疲れてて、岸にボートをつけて昼寝をしたよ。」
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バスマスタークラッシックで優勝することは極めて難しいことだが、他国から来てクラッシックに勝とうとすることは、更に何倍も難しい。 アメリカにいるためだけに大森が努力し、犠牲にしてきたことにより、彼のクラッシック優勝は、一つの夢に注ぐことのできる強い願望と惜しみない努力の証となった。
「初めてそういう雑誌を見たとき、僕にはそれしかないと思った。僕はアメリカでプロのバスアングラーになるために生まれてきたんだ。」
彼は高校を卒業してすぐ、日本のレストランでウェイターをしながら、夢を実現するためにお金を貯め始めた。ここから、彼のアメリカバスフィッシング界頂点への道は始まったのだ。当然、両親や友達は、彼のアメリカンフィッシングへの野心をバカな夢だ、ただの空想だと見ていた。
「僕の両親は、アメリカに移住してバスフィッシングで食べていくという僕の夢に対して何も言わなかった。」彼は一呼吸おいて、こう付け加えた。「というより多分、両親が何て言うか、僕が聞いてなかっただけかもしれない。みんな僕のことをおかしいと思ってたんだ。」
「アメリカでは『若くてバカで愚か』という言葉を耳にする。まるでそれが悪いことかのようにね。」と大森は微笑む。「僕は若くて馬鹿で愚かなことは悪いことじゃないと思う。僕を見てみなよ。」 弱冠21歳だった1992年、大森は初めてアメリカの地を踏んだ。テキサス州レイク・サムレイバンとアラバマ州レイク・ガンターズビルで行われたBASSインビテーショナルに挑戦するためである。この二つのトーナメントは彼が想像していた通りのもので、大きな障害をちょっとした不便さと思うほどに、彼の願望を駆り立てた。 「アメリカには家もお金も家族も友達もコミュニケーションも無かったけれど、そんなことどうでも良かった。ただ釣りがしたかったんだ。」と彼は強調する。アメリカを初めて体験した後、彼は祖国に帰り、日本でのレンジャーボートディーラーであるポパイに出向き、アメリカでフルシーズン釣りができるよう、スポンサーになって欲しいと懇願した。 ポパイはすでに、日本のローランド・マーティンと言える下野正樹プロを1993~1994シーズンのBASSサーキットでスポンサーしていた。しかし下野プロはトーナメントの合間に日本に帰ることを望んでおり、その間下野プロのボートとトラックを保管する場所を持っていなかった。
大森の粘りで、解決方法が見つかった。彼はアメリカで、下野プロのバスフィッシングにおける運転手となることを自ら希望したのだ。大森の望みは叶った。彼は1993年の秋、BASSシーズン中下野プロを空港からBASSの試合会場へ送り迎えする役目を与えられ、アメリカに派遣された。
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大森はノンボーターとしてトーナメントに出場することが許可されていた。トーナメントが無いときには、大森はアメリカに残り、これから下野プロのトーナメントが開催されるレイクの下見にボートを使っていた。 それからの2年間、20万マイル以上走っている1985年式シボレー・サバーバン(下野プロのトラック)が大森の唯一の家となった。 「あのトラックには3回もエンジンを載せ替えたな。」と彼は振り返る。「しょっちゅう壊れてた。一つ直した途端に次が壊れるんだ。」彼の唯一の楽しみは、ビデオデッキ付きのテレビと、ダンボール一箱分の昔のバスマスターが収録されたビデオテープだった。 「電気があるキャンプグラウンドに泊まったときには、アメリカのバスフィッシングを学ぶために何度も何度も見たよ。英語の勉強にもなった。」ほとんどのアメリカ人には放浪者のように思える生活も、大森にとっては天国だった。 「道に迷って、行くところが無くて、空腹で、お金もなかったけど、気にならなかった。とにかくアメリカで暮らしていられること、トーナメントに出られることだけでうれしかった。」 |
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大森の快活さは生まれつきのもので、彼にとっては悪い経験などなく、挑戦とチャンスがあるだけだ。
「間違うことは悪いことだと思ってない。いいことだと思うよ。新しいことを学ぶチャンスだってね。だから僕は釣りが大好きなんだ。毎日が挑戦で、毎日新しいことを学んでる。」
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「当時、トーナメントで優勝することを成功だとは思わなかった。」と彼は続ける。「アメリカにいて、プロのトーナメントに出ることが、僕にとっての成功だった。日本に帰って働きたくもなかったから、レイクに出られるアメリカでの毎日が素晴らしかった。」
1996年、ミズーリ州レイク・オブ・オザークで行われたBASSインビテーショナルで優勝したとき、大森は初めてアメリカでの、『成功』を味わった。彼の不安定なアメリカでのフィッシングキャリアは、この優勝で安定へと向かった。 その後数年間、大森は夢を追い、アメリカ中を周り続けた。そのうち、賞金やスポンサーからのお金が増えていったが、それでも彼は堅実で経済的な生活を続けた。
「初めてレンジャーボートを獲得したとき、感謝の気持ちを表わすために日本のポパイにそのボートをプレゼントしたんだ。」
その他彼は、改造したバンを買ったり、アメリカ永住権に申し込んだり、テキサスの大学で英語を学んだりするのに賞金を使った。2000年には、8年間のキャンプグラウンドと時々のレンタルトレーラー生活に別れを告げ、大森はついにテキサス州エモリーに家を買った。2001年3月、テキサス州レイク・サムレイバンでのBASSオープン、そしてアラバマ州レイク・マーティンでの権威あるトーナメントで10万ドルと、ナショナルトーナメントで2戦連続優勝し、彼のフィッシングキャリアは開花した。 2001年の上半期、大森は22万5千ドル近くの賞金を獲得。そして彼の15年間の努力と犠牲が報われるかのように思われた時、大森にとって人生で最悪の事態が起こった。
2001年の夏に起こった2つの大惨事が、彼の類まれなる楽観主義さえも崩し、彼を絶望に陥れた。 その一つは、彼の父親の突然の死だった。
「親父はニューオリンズでのクラッシックに僕の釣りを見に、アメリカに来たばっかりだった。日本に帰って3日後に亡くなってしまった。僕がトーナメントで釣るのを、親父はその時初めて見たんだ。」
その数週間後、アメリカ全体を震撼させた惨事が起きた。ワールド・トレード・センターとペンタゴンへのテロ攻撃だ。 大森は犠牲者を知っていたわけではなかったが、愛する者を失った人々の痛みを感じたのだった。
「親父が死んだばかりで、その痛みが分かった。ビルが崩壊するのを見たとき、訳も無く僕と同じ痛みを経験することになる犠牲者の家族達のことしか考えられなくて…。耐えられなかった。
「それらのこと(父親の死と同時多発テロ)で、この世にはバスフィッシングより偉大なものがあると気付いた。そういった他のことを考えてしまって、釣りに集中できなくなったんだ。トーナメントには出るけれど、単に体を動かしてるだけだった。」 2001年8月から2002年2月まで、大森はBASSの試合で一度も賞金を獲ることができず、彼の成績の平均は100位台となった。 |
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「僕の人生の中で最悪の時で、また釣りを始めるまで時間が掛かった。」彼は言葉を選びながら、そう語った。
2003年、彼はもう一度釣りを始め、前シーズンから最も成績を向上させたアングラーに贈られる、BASSホライズンアワードを獲得した。
2004年、大森はBASSツアーともう一つのツアーに出場し、全てのツアーレベルの試合で賞金を獲得。その功績が8月ノースキャロライナ州でのクラッシック優勝に繋がっている。 クラッシックチャンピオンとして、大森は自分の生活が変わるとは思っていない。
「クラッシックに勝ったからといって、自分の釣りを変える気は無いよ。来年は全部釣りたいな。BASSツアーと、E-50、そしてFLWツアー。」
この日本生まれのクラッシックチャンピオンには、これから先、バスフィッシング以外の何かがあるのだろうか。
興味深いことに、あるのかもしれない。「他の事を学ぶために大学に行こうかと考えたんだ。海洋生物学か何か。どうかな?」
彼が、オーストラリアでサメと泳ぐなんて夢を見始めないように祈るしかない。 |
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リック・クランの貴洋との思い出
「貴洋はすごい生徒だ。」とクランは言う。「学ぶときに自分のエゴを挟まない。そこが素晴らしいと思う。彼は自分が全てを分かっている訳じゃないことを素直に認めるんだ。」
2002年の秋、クランは自然の理解と釣りを専門とした教室を、ミズーリ州オザーク・マウンテンにある自分の家で開いた。大森は最初に申し込んだ内の一人で、また最後まで残っていた一人でもあった。
一週間のクラスが終わり、他の生徒が帰った後、大森はクランのタックル部屋を個人的に見せてもらうため居残った。
「僕のタックルを見終わって、クラッシックのトロフィーを見てもいいかと彼が尋ねてきた。」とクランは振り返る。「トロフィーが保管してある母屋に彼を連れて行くと、彼がトロフィーを持ってみてもいいかと聞いてきた。僕は、トロフィーの重さを知りたいんだと思って、どうぞって言ったんだ。」
その次に起こったことは、クランをびっくりさせた。
「まるで僕が同じ部屋にいないかのようだった。突然彼はトロフィーを頭上に高々と持ち上げて、バスマスタークラッシックで優勝した振りをしたんだ。1分近くこうしてたな。パワフルな瞬間だった。」大森がトロフィーを置いたとき、クランは彼にどんな感じだったか聞いた。
「どんな感じか知りたくて。」と大森は答えた。「こんなことするやついるか?」クランは指摘する。「他人の世界チャンピオンのトロフィーを持ち上げて、自分が獲った瞬間を想像するなんて。普通恥ずかしくてできないだろう。貴洋は自分のエゴに囚われない。だから彼はこのスポーツにおいて素晴らしい生徒なんだ。」 8月、クランは大森のクラッシックの夢が叶ったのを見て、背筋がぞっとした。 「感情を抑えられなかった。本当に彼のことが誇らしかった。このスポーツではどんどんレベルが上がっていて、貴洋はバスプロを目指す人たちの新しい模範となるだろう。彼の生活は全て、より良いアングラーになるために作られていて、現在このスポーツで成功するためにはどれだけの努力が必要なのか、手本となるよ。」 |
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